自称差別者の日本語教師

数歳上の日本人女性の日本語教師。
結構人気のあるしっかりした女性、という
話を聞いていて会って話すのを楽しみにしていたが会ってみると

なかなか色々と考えさせられる事柄を提供してくれた。

例えばアジア系の生徒がカンニングしていた、という話に

”それは中国人でしょ?あの人達は当たり前のようにやるから”
という。

”あのね、私差別するのよ。私中国に2年いたからわかる”
とも言った。

”でも日本語の生徒って99%が中国系でしょう?”
というと
”だから台湾系の生徒に、中国から独立してくれるのを本当に願ってるわ、
と言ってるの”
という。

”え、そういうこというんですか!”と驚くと
”まさか、他の生徒の前では言わなかったわよ。でも
居ない時にはいうから。”
とのこと。

しっかり中国系、台湾系、香港系と生徒を分けて
中国出身だけかなりの差別をするらしい。
カンニングした生徒は香港系だったし、カンニングは
日本人だってするんだけども。

私が”彼らがいるから仕事ができてる節もありますよね”
と自分たちだって恩恵を受けているところあるだろ、

という意味でいうと
”でも中国系は少ないでしょ”
とのこと。

個人的経験を全ての人種に当てはめる人も多いが
それを教師としている中でコントロールするべきであると
わたしは感じる。プロとはそういうものだ、と考えるところが
あるがなかなか感情論から抜けきらない日本人教師って多いのだ。

 

そして私にも

”東京の人?東京の人のわりにはXXXXX。
東京の人なのにXXXXX。”

関西人には良くある態度だけども
自称差別する、といって教師がそこまで
態度に出していいのだろうか。
腹も立ち、

”東京と言ってもほとんどの人が東京以外から来ているし
東京の中でも西と東など色々と文化が違うし
私は3代以上続いている江戸っ子だしね。
他の文化と一緒にされると傷つく人もいますよ”

と言った。

2度目に話した時にまた
”東京の人でOOなの?”
というので
”また東京人差別ですか”
というと
”ううん、私江戸っ子は尊敬してるのよ”

だって。江戸っ子だけは差別しない?

結局差別してるじゃねえか、てやんでえ、ばかやろう、このくそったれ!

海外の日本人教師、まだまだ日本在住のおかしな教師にも負けてないのかな。

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毎日の生活や学者の議論の仕方に見るファシズム性?

(前記事続き)ここで思いました。強制というのはどんな状況でも
ファシズムの始まりではないかな、と。

それが友人の間でも、主婦間の交流でも(公園デビュー友達とか)、
仕事の中でも、議論の間でも、強制というのが出ると
急にファシズムの空気を感じます。
追いつめてやらせたり、言いたくない事を吐かせたり。

それがプライベートなレベルでも起きてはならないことだと思います。
個人の尊重というのはこういう所からもあるし
グループ間の協調性、なんていうのも重んじていると
個人の尊重の価値がずれて行く事ってあると思うんです。
みんなのために個人一人がやるべきだろ、って。

そういう文化の価値をある程度植え付けられて育ったと思う
日本育ちの筆者はどうしてもこの意味をちょっと伝えたい。
大きく考えればこういうところから虐めや虐待(言葉の暴力含む)
も来ることってあるんじゃないかな、など。

人と感情的にも論理的にも同調していくと
もし相手との違いが目につくようになったり
反対する意見が出てくると気になってきて
どうしても強要、強制したい気持ちが強くなることもあると思う。
そういう事に日頃から敏感になり自分の欲求をコントロールする
癖をつけるのも将来のより”平和的peaceful"な生活に
繋がるんじゃないか、と思うんですが。

そしてそういった志(こころざし)が人との交流、他国人との
”平和的”な交流にも役に立つのではないかな、と思ったりするんですが。

日本のアカデミック(学界関係の世界)な場で議論をする時に
良く見られるのが
「自分の意見も尊重して欲しいし相手の意見も尊重する」
というお互いの尊重を望む(尊重だから同意しなくていいし、反対してもいい)より、
「相手の意見を打ち負かすために自分の意見を主張」
という態度です。
同意しなくても相手の意見を受け止める/取り入れてみる/考えてみる、という事やその可能性を表明してみることも大事だと思うんです。
二元論(どちらか、などという二つの反義語で
物事は出来ている、などという観念)を実は広く批判していたりする人物も
実際はその観念をそのまま日々の議論の構造に入れて熱くなり
”あたかもその二元論観念を強調するかのように”
議論上で使用し結果的にその二元論の観念は強化されているように感じられるんです。

これは正直ショッキングでした。そんなやり方で人の意見を考えたり
聞き入れたりする事が出来るんでしょうか。
逆に、そういうやり方だと人の意見は聞くもんじゃないという教訓を
得た気になりませんか。

まあ研究会などが毎回そうとは限りませんよ、もちろん。
でも学界などに行くといつも嫌な気分で帰ってくる。

これは議論上でのファシズムだと思いました。

ある視点や目的を持って意見を言う、表現する、伝える、シェアする、というのはそれぞれの何らかの活動の一部だと思います。
でもそこで強制やその場の勝ち負けの意味でやると
視点と言うのが殺されるだけであって、平和的に生かされ、
一緒に考えて行く、ということには全く繋がりません。

こんな勘違いな議論の仕方でフェミニストだ、学者だ、なんて
言っている人を筆者は信用していません。
まあ周りの環境がそうさせているかもしれないし、
特に学者の多くは世間を知らずに勉強ばかりして
人との交流なんて考える余裕もなく、他の事を優先して来た人達ですから
出来なくて当然かもしれない。

だけども人を教育していく仕事をしていて
人の上に立ち給料をもらっている人間としては
学生や世間にお互いが尊重できる理論の持って行き方や
平和的な議論の仕方というのを教えていく責任があるのではないか、
とも感じ始めてきました。
平和的な政治、国、生活、教育(虐めなどを廃絶するような)
を目指すのだったらこういうやり方を教育哲学の術に入れる。

ミーティングの場でだって勝ち負けで勝ったらそれいいんでしょうか。
一体なんの意味がそれにあるんですか。
勝ったからあなたの本がもっと売れるんでしょうか。

全てが勝ち負けではいけない、ということではなく、
ゲームや運動会、コンテストなどの勝ち負けにだってもちろん根拠は
あやふやなことがありますがこれらは教育、という場の責任と
また違うものであって、そこの勝ち負けを言ってるんではないんです。
内容によっての勝ち負け、というのは意味があると思います。

例えば勝ち負けの議論を目的、というのもありますよね。
議論のコンペ、など。それもまた強引な強制とは違う物で
意味が変わると思います。

強制や追いつめることによって構築される
日々の会話はとっても疑問に思ってしまいます。
日頃からの友人やメディアの中での人の意見の交換の仕方
を見てみて色々と考えさせらます。

強制したらやっぱり
人権運動と言ったって友人関係だってファシズムになってしまうことも
あり得る気がします。だからと言って相手をファシスト扱いするんじゃなくて
事が大きくなる前に自分で敏感になれるよう洗練された視点を
持って行きたいし物事の平和的な
交流というのは何か、と日頃から感じて行きたいと思っています。

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