アニメと人権

うーん、とっても観てよかった!と思えた、
If You were Me : Anima Vision
という、このアニメ作品の集まりはスゴイ。

韓国の国家人権委員会のプロジェクトとは思えないほどの
とても観やすい、家で家族や友人と見れる作品。
それぞれ10分で物語もほとんどが会話のない、ほとんどが優しいイメージのもの。
小さい頃にみたアニメを思い出す作品もある。
観てて気持ちが動いた。芸術的にも個性があって多才なのがわかる。


特にそう思ったのがAmy Leeという監督のThe Flesh and Boneという作品。
この作品の画質だけが結構ドキッとするかもしれない。
内容は自分の先祖から受け継いできた頭、手足、顔などの”見かけ”の受け入れられ方が
代々変わってくる、というもの。美の基準を問うやり方としてかなりかっこいい複雑な
グラフィックを使う。これは凄く気に入った。欲しいー。


Be a Human Being
この作品はPark Jae-Dongという韓国でラディカルなアニメ作りといえばこのヒト!という位有名らしい。動物が高校生として学んでいる。先生に体罰を受けながら早く人間になれ、言い返したいなら人間になってからにしろ、と言われる。そう人間の父親にも言われて育った優しいゴリラはその優しさからか、クラスで一番初めに人間になった。クラスメイトにも祝福される。
しかし先生も父親もゴリラに戻れ、という。どうしてか、というと・・・(ここからネタバレ、って書いちゃいます)。どーせ大学に入らないと人間という扱いをされないからだ、と。先生も父親もそれがお前のためだ、という。息子は人間である父親は大学に行ってないのに、と思っていたら、父親は人間の顔のマスクをはずしゴリラの正体を見せ、実は父親はまだ人間になっていない、ということを泣きながら告白した。同窓会に行っても人間扱いをされないから、と人間のマスクをかぶり、人間のふりをしていたのだ。 

”大学を行った者だけが人間という扱いをされる社会” これを人権委員会が選んだの、偉い!!良くやった!!と思う。こういう意識、ある程度日本でも欧米でもあっても、
国家委員会が勧める、というのはほかにあるだろうか。韓国は人権意識がより強いのかもしれない。


Day Dream 
生まれつき左手と両足が他の子と違う形の女の子とそのお父さんのお話。二人で昼寝をしてるとお父さんは女の子が幼稚園に行こうとしても、タクシーに乗ろうとしても拒否されてしまう夢ばかり見る。最後に似たような状態の子供たちの実写の様子が写る。
これは教育にいいのだろう。あまりにもまわりがネガティブなリアクションを女の子に対してするがそれが事実なのか、事実だからいいのか、どうなのか。小学生のころそういえば道徳の授業でNHKでイジメとか喧嘩とかのドラマを見せられて先生と話す、とかあったが結構ありがちな話で何を話したのかは覚えてないが、”わざわざみんなにみせて話しても実際には使えないだろー”という印象だけ残っている。皮肉なものだ。ネガティブな部分ばかりでなく、こうやって受け入れましょう、という例も入れたら戸惑うヒトにいいんじゃないか、とも思う。


At Her House
これは働いているけど明るい旦那、赤ちゃんそして働いているのに家のことは全部やらされていて疲れている奥さんのアニメ。何が良かったかというと、良く奥さんが全てやっていて、旦那に不満、っていうと口げんかとか、旦那が暴力、とかとってもネガティブな関係が描かれやすいが、これは旦那が能天気で奥さんの苦労に気づいてるのか、気づいていないのか、のほほーん、と楽しそうで奥さんにもキスをする旦那。(非協力的で無責任なパートナーと言っても実際は様々で乱暴で暴力的な人もいれば一見優しそうだが自分勝手で楽天家というのもいる)奥さんは結局最後は子供をつれて一人立ちするイメージが出ていた。良かった良かった。こういう男性には何を言っても無駄、という感じだ。そうそう、怒るエネルギーも一人立ちのエネルギーに使ったほうがいいよね。


Bicycle Trip
これは韓国の中で差別されている(たしかイラン人)アジア系外国人男性の話。
仕事場で体の色で差別をされる。自転車にのっていても
まわりに気づかれないように、気づかれないほうがいい、という気持ちになっている。
それで透明人間のようになっているんだと思う。
最後は恋人に”どうみられたっていいじゃない、楽しもう”
と言われて透明ではなくなっていた。うれしそうに二人で自転車に乗っていた。

んー、以上のこれらの作品は売っているようだがわざわざ買わないと観れないかもしれない。
それでも記事にしようと思ったのはこれは韓国の人権やアニメ業界があまり
知られてなかったり、学べる機会がないから自分にとっても忘れないよう
記事を残しておこう、と思った次第。韓国では”女性とジェンダー省”のような
政府のセクションが存在し(英語ではMinistry of Gender Equality直訳すれば性平等省かなー英語の部分クリックでサイトに飛びます)、女性だけの映画祭などを主催している。
そこでは世界の映画はもちろん、クイアの女性(他の映画祭では男性も)監督も応援されていて
知人もかなり招待されたりして参加している。
韓国は映画が熱い!のである。香港もそうだ、って書いたけど
韓国は国費を使って、国の税金を使ってやってるのだから規模が違う。
役人がこれらの仕事をしてるのだから。

日本でもぴあ映画祭とかはどういったアニメとか紹介してるんだろうか。
良く知らないが、これらの作品の存在(できる)の意味をもっと考えて行きたいと思った。

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冤罪とは人間以下とみなす意の暗号か

日本で冤罪で30年も刑務所に入れられていたというケースは珍しくないようだし、後にどんなにそれが冤罪だったか、と明らかな証拠がでても棄却されている。ザ・スクープの動画ニュースで見た冤罪 狭山事件はひどい。部落出身者であった石川さんなどの話を聞くとくやしいし、似た事件が現在も起きている(2003年の鹿児島事件)のと、狭山事件が未だに(今年3月)再審の請求を棄却されているのをみると、何も変わらない日本警察の体制、部落、少数派民族への差別が明らかに見える。こういう状況に関わっていないとされる、自分らとの違いは一体なんなのだろう。実はちょっとの違いしかないのではないか。明日はわが身と感じて、他人事と思わずに知識も増やし、何ができるか考えたい。この機会に筆者が見てきた外国での、冤罪を日常生活の一部として経験している人達の事と比較してみると共通した構造があるように思える。

筆者は”キャリアと活動”の記事の中で話したが、今住んでいるところで”最も最低の地位に位置した生活をしている”と言われる路上生活者とプロジェクトを通じ働いていた。彼らは路上生活者で、HIVウイルスを持っていて、注射を使った薬をやっていて(た)、監獄を行ったり来たりという人達だ。彼らの(このグループ以外も)多くは白人と先住民でアジア系は少ない。この彼らも警察にいつも囲まれ、なにかと言うとすぐ逮捕され牢屋に連れて行かれる。例えば覚せい剤の代わりに支給された他の薬(体に害はない)。警察が急に、それを見せろ、と言ってもし彼らが見せられなかったら手錠をはめ牢屋だ。急になにかを出せ、と言われ、しまった所を忘れたり、人に持ってもらっていたり、ましては路上生活者なのだから置いてあるところが曖昧になるのは当然だと思う。そんな弱みに付け込む、わかった上での逮捕なのだ。彼らも日常茶飯事となるとしょうがない、とも思うし、余計に腹が立ち薬に頼りたくなるし、暴れたくなる気も失せるどころが増えていく、というのが理解できる。それを疑問に思わなくなってしまうところが権威主義制度のしたで慣らされてしまう、冤罪のシステム構造だと思う。やっていないことや、罪を感じていなくてもやった、ということにすれば食事も寝場所も確保される。

良く筆者が感じたことは、自分のようなアジア人のクイアで(彼らの中にクイアの男女もいる)大学関連で送られた人間を彼らはどう思うのか。ヒエラルキーが明らかだし、以前話したように彼らはとても頭がいいから経済の浮き沈みで政府からの自分たちへの扱われ方が変わる、というのも十分知っている。そういったところで白人よりも下に見られているアジア人が移民したり、留学したりして自分の町に金を落とし、よくも悪くも政府関係や経済構造に貢献している。特にそれがここ10年増え続けているのを彼らは知っているし、そんな結果の中での彼らとの上下の関係を持ったプロジェクトだ。まあ、もちろん、人間関係を始めに築くのが先だと思ってむやみやたらに発言もしないよう控えたり、彼らの感じることをまず理解しようと思った。それに彼らは選ばれた人間でもあったので誇りを持っていたし、他人を尊重する。逆に筆者との関係もどうしたらいいかわからなかったと思う。とにかく、そんな頭のいい彼らでも冤罪は当たり前という日々を過ごしているのを見ると、そういったことを疑問に思うのはそれ以上の暮らしをしている人達だけ、というのがわかってくる。

非利益団体でそういった状況を変えよう、と監獄に通って人と話をしたり、上に問題定義をしたり、ということをやっている人達と一緒に働いていたのだがなかなかここのレベルから”普通”中流の生活のレベルに疑問視されていくように物事を運ぶのはたやすくない。そこのレベルのなかでどうしよう、ということがまず先だからそれが進まないとそのまま、レベルを保ったままで、中流・普通の生活の質問にならないのである。冤罪は彼らが”ふつう”と認められて初めて問題視されるもの。結局、普通以下、人間以下、となっているのだ。

アメリカでの黒人への扱いも似たものだ。この場合、社会的地位は関係がなかったりする。もちろん、労働階級の方たちが多く住む場所での違法逮捕は多い。日本のアメリカ基地で働いていた黒人男性と結婚した知り合いがいるのだが二人がアメリカに移り住んでからその彼は何度も捕まっている。やっていないことでも、弁護士を雇って裁判をして戦うよりも、認めて、牢屋に数日入ったほうが安くすむのだ。もし一度、二度、に弁護しを雇っても、黒人という人種である限り、将来的に何度も繰り返されるとなると、銀行に”冤罪裁判ローン”でも組みこまないとやっていけないだろう。全くおかしい。これは悲しいことだが黒人の間では日常茶飯事なのだ。他の誰もがやっているちょっとしたスピード違反も黒人だと捕まる率が一気に上がる。あたかも黒人を捕まえる優先順位があるように(いや、あるのは確実と言ってもいいくらいだ)。そして以前デトロイトの大学内のキャンパスで黒人の大御所教授がリンチにあった。偏見・差別が理由だったと思う。これも裁判でかなり複雑にもっていかれ、彼が教授という事実も、キャリアも、研究の質も疑われた。こういった話は数限りない。

日本の少数民族も警察には人間以下、とみなされていて、冤罪を違法にもっていかないようにされているのか。警察のシステムを知らない、知識がない、ということを逆手にとり、自白をさせる。後で気づき、知識を得たあとの気持ちを考えるととてもやり切れない。自白しろと追い込まれ、入院患者10人、自殺未遂3人を出した鹿児島事件もインタビューを見ると本当に急激な精神の変化を持たされ、命を危ぶまれる気持ちが伝わってくる。だけど死ぬのは解決にならない。その気持ちを原動力に変えて、少しづつでもいいから行動に変えようではないか。自分は人事とは思えない。これらの動きをこれからも見ていきたい。

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